クラーナハがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

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世界遺産に認定されてにわかに注目を集めている国立西洋美術館だけれども、波に乗っているというべきか、なんとも心ニクい展覧会をやってくれるんですね。「クラーナハ展・500年後の誘惑」(10月15日~)。クラーナハといえば西洋美術史的なところでいうと、15世紀のドイツ・ルネサンスの画家となるけれど、この人のウリは「500年後の誘惑」なんていうサブタイトルがついているように、独自のエロティシズムだったりする。

そんなクラーナハの絵をぼくが知ったのは、若いころに貪るように読んだ澁澤龍彦の本からだった。澁澤龍彦といえば、いうまでもなく、類まれな博覧強記の人、なかでもエロティシズムについては「エロティシズム」というそのまんまのタイトルの著作があったりする、エロスに一家言もった人である。その澁澤龍彦をして「ヨーロッパの美術に現れる裸体画の中で、いちばん私にとって好ましく、しかもエロティックな印象をあたえる」といわしめたのがクラーナハの裸体画だった。こう書くと、クラーナハの絵を知らない人は、いったいどんだけエロいのか?と、リアルで艶めかしい裸体画を想像してしまうかもしれないけれど、ところがどっこい、この人の裸体画は、実にクールなんですね。クラーナハの筆によって描かれたその白い肌は、まるで陶器のような冷たい静けさをもっているのだ。

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そして、クラーナハが描く裸体は、なよなしていて肩幅が狭く、胸も小さい未成熟な身体が特徴だったりする。ルネサンスの人体表現といえば、ダヴィンチやミケランジェロに代表されるように、解剖学にもとづいたリアルで肉感的な身体ではなかったか?厳格に様式化された中世の人体表現から脱却して、人間性復活を謳って花開いていったのが、ルネサンスのいちばんのポイントではなかったか?

そう、ここがおもしろいところで、クラーナハが描く裸体は、イタリア・ルネサンスの影響を受けながらも、中世の様式化を引きずっているんですね。で、そんな、ある意味クラシカルな裸体を、クラーナハは決して一糸まとわぬ姿では描かない。必ずといっていいほどに、裸体にアクセサリーや帽子など装身具をつけさせていて、さらには、薄い透明なヴェールのようなものをまとわせているのである。それによって、クラシカルな裸体なのに、いや、クラシカルな裸体だからこそか、不思議な艶かしさが立ち上がってくる。そんな独特なエロティシズムを、例の陶器のようなクールな白い肌が、さらに“逆説的”に際立たせているのである。

areそれにしてもこの透明なヴェールはいったいなんなのだろうか?だって、今でこそ、ビニールとかがあるわけだけど、16世紀のドイツにそんなものはない。せいぜい透けるような薄い布の類しかなかったはずだ。してみるならば、この透明なヴェールはクラーナハが裸体画からあの独特なエロティシズムを引き出すためにオリジナルに考えだしたものだろうか?

クラーナハが裸体画を描きはじめたのは実は60歳を目前とした頃からだったという。それには、それまで世間的に裸体画を描くことが憚れていたのが受け入れられるようになってきたという時代背景もあったけれども、それにしてもすごい。うがったいいかたをすれば、逆にもう色欲にガツガツしない高齢だったからこそ、ああいった透明なヴェールのような絶妙なものを考案できたのかもしれない。だってねぇ、エロにせよなんにせよ、世の中にないものを考えだすっていうことは、そうそうできることではないのだから。

さて、そんなクラーナハの作品が一堂に集まる今回の回顧展の、いちばんの見ものといえば、やっぱり「ユディト」だろう。ユディトとは旧約聖書外伝の「ユディト記」に登場するユダヤ人女性である。どんな物語かというと、その昔、ベトリアという町があった。ユディトはそのべトリアに暮らす寡婦で、町がアッシリアの軍隊に包囲されたとき、神の霊感によって自分がこの町を救うと決心する。そこで彼女がとった行動は、敵将のホロフェルネスの陣営に忍び込み、その陣営での酒宴で、ホロフェルネスが泥酔したすきを狙って首を切り落とした。かくして、ユディトの勇気ある行動によって町は救われた。と、そんな物語である。だから、ユディトを描いた絵には必ずお約束のように切り落とされたホロフェルネスの生首が描かれている。男の生首が描かれた女の絵といえば、ほかにはサロメも有名だ。もしも西洋美術に「男の生首画」なるジャンルがあったとしたら、ユディトとサロメは間違いなくツートップとして肩を並べるはずだろう。ユディトは、クラーナハ以外にも、ボッティチェッリ、カラヴァッジオ、クリムトといった、そうそうたる顔ぶれの画家たちが好んで描いている。

じゃあ、クラーナハはどんなユディトを描いたかというと、これまたクラーナハらしいクールなユディトだったりする。たとえばカラヴァッジオなんかは彼特有の劇的に光と影を対比させた世界観の中、実にドラマティックにホロフェルネスの首を切るユディトを描いているのだけれど、クラーナハのユディトは、ぱっと見がただの肖像画。でも左下にはホロフェルネスの無残に切られた首がごろりと置かれてあるのである。

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しかし、一見肖像画のような静的でクールなクラナッハのユディトではあるけれど、やはり不思議なエロティシズムを感じさせるんですね。「ユディト記」にははっきりと書かれていないけれど、泥酔したホロフェルネスはユディトとベッドをともにして寝首をかかれたという解釈もされている。だからこそ、多くの画家たちがこの物語をモチーフとして好んで描いてきた。そうであれば、このクラーナハのユディトは、実に意味深なものに見えてくるのである。あきらかに快楽の絶頂に首を切られたかようなホロフェルネスのだらしない表情。その陰毛のようなもじゃもじゃ頭に髪を指にからめながらそえているユディトの指。そして彼女の物憂げな表情とサディスティックにさえも見える冷たい目の光。まるですべてにピントがあわされたようなディテールが細密に描かれた唐草模様の胴着とそれにしめつけられている白い肉体。見るほどに一見クールな肖像画のようなこの絵から、タナトス的世界に彩られたエロティシズムが、暗喩的に、絶妙に、じわじわとにじみでてくるのである。さすがクラーナハっていうべきだろう。境地に達した筆の技。若造には決してこんな絵は描けないのだ。

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2016-08-03 | Posted in アートのことNo Comments » 

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