モーリス・ラヴェル「夜のガスパール」これぞ耽美の極地! 

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「夜のガスパール」といえば、モーリス・ラヴェルです。で、ラヴェルといえば音楽史的なところでは近代と現代の橋渡し的なところに位置づけされる、フランスのスーパー・クールな作曲家ですね。たとえば代表作の「ボレロ」。情熱の国スペインを題材にしながらも、あくまでも抑制の効いたボルテージの上がりかたで、クライマックスの最後の瞬間まで緊張の糸が切れることなく持続していくあの絶妙なテイストは、「ボレロ」の麻薬的な魅力であると同時に、まさにラヴェルだからこそのクールテイストだったりするわけです。かつてラヴェルのことを「スイスの時計技師」といったのはストラヴィンスキーでした。もちろんそれはラヴェルの父親がスイス出身で彼がスイス人の血をひいているということもふくんでいなくはないけど、やっぱりそれは彼がつくりだす音楽が、スイスの時計技師がつくった時計みたいに精緻なものだったからで、実際、父親は蒸気機関の技師だったりもして、そう、ラヴェル自身もつまりはエンジニア系の血を受け継いでいるわけなんで、まあ、ストラヴィンスキーはなかなか、いいえて妙なことをいったっていうべきなのかもしれません。

父譲りのエンジニア系の血がどこまでラヴェルの人格を支配していたかなんてわかりませんけど、確かにラヴェルはメカニカルなものが大好きだったようです。晩年のラヴェルの書斎は機械仕掛けのおもちゃやオルゴールなんかで溢れかえっていたっていうし、また、まだ若かりしころ、友人とオランダ・ドイツをめぐる船旅に出たラヴェルは、自然の眺めなんかよりも、ライン川沿いの工業地帯の圧倒的な光景に感動して「ああ、この僕たちを取りまく、城のような形をして流れてくる鉄や火の大伽藍、そしてベルトコンベアや汽笛や凄まじいハンマーの音がつくりだす驚くべき交響曲をどうやって君に語ることができるだろうか!」なんていう手紙を嬉々として書いていたなんていうエピソードもあるんですね。こうしたラヴェルの反自然主義的な人工美礼賛は、なんだかちょっと偏屈な感じもしないわけでもないけど、時代背景的なことを考えるなら、まさにそれは、同時代の詩人マリネッティがイタリア未来派宣言をして「爆音をとどろかせるレーシングカーは、あのサモトラケのニケ像よりも美しい」なんてことをいっていた時代でもあるんで、工業が猛烈な勢いで発達していたこのころにあって、決して外れた感覚ではなかった。ただ、ラヴェルの場合のそれはマリネッティみたいなイデオロギー的なものではなくて、もっと個人的なフェティッシュな嗜好に負ったものだととらえたほうがいいかもしれません。ちなみに、伝記や評伝なんかでラヴェルについて書かれたもろもろのことをざっと並べてみると…、早熟で、デカダン派であった。ボードレールとポーとマラルメに傾倒していた。理屈屋でよそよそしい男だった。かなりとっつきにくい男であった。相当なナルシストであった。おしゃれであったが、それは背の低さのコンプレックスの裏返しであった。寝不足でいつも機嫌が悪く、周囲の人に気をつかわせていた。はにかみやであった。おそらくマザコンであった。と…、なんだかラヴェルという人は、ずいぶんと複雑なエゴを抱えた人間のようなんですけど(もちろんこんなことで実際の人格なんかとても判断できませんけど)でも、なんていうんでしょう、あの「夜のガスパール」を作曲した人は、やはり“そういう人”であったのか!とヘンに納得できてしまうんですね(笑)。ただ美しいだけじゃない、そう、ラファエル前派の絵のみたいに耽美で妖しい美しさをたたえたああいう曲を書くには、ちょっと屈折した人生が必要なのかもしれない、なんて、と~っても勝手なことを思ってしまうわけなんです。

で、そんなラヴェルが作曲した「夜のガスパール」は、19世紀のフランスの詩人アロイジウス・ベルトランの同名の散文詩をモチーフにつくられています。このベルトランの詩集「夜のガスパール」は、彼の唯一の代表作であると同時に、文学史においては、散文詩という新しいジャンルを切り開いたエポックな詩集として位置づけられているんですけど、この詩集がそういう名誉をあずかるまでには、ちょっとした回り道があったりしました。

メディアが発達していないかつての時代、生前は箸にも棒にもかからなかったのに、後世に“不朽の名作”になるっていうことは珍しいことではなかったわけで、このベルトランの「夜のガスパール」もまさにそのパターンだったんですね。「夜のガスパール」が出版されたのは彼が死んでからのことで、悲しいことに、その詩集もたいした話題にならないままに世に埋もれてしまったんです。で、最初にその世に埋もれた「夜のガスパール」を“発掘”したのは大詩人ボードレールだった。ボードレールが注目したのは散文詩という新しい表現方法によってなされた視覚的な描写でした。彼はベルトランの「夜のガスパール」から並々ならぬインスピレーションを与えられ「パリの憂鬱」を書き上げ、その序文でベルトランを絶賛しました。そんなことで「夜のガスパール」は世に知られることになったんですけど、それをさらに一般的に世に広めたのが我らがラヴェルだったんですね。ボードレールを愛読していたラヴェルがベルトランに目をつけたのはごく自然な成り行きだったかもしれないけど、そのベルトランの詩は、いかにもラヴェル好みのデカダン系の幻想的世界に彩られていた。ラヴェルが実際この詩のどんなところにインスパイアされたかわかりませんけど、クールなラヴェルと、実はロマンチストであろう(屈折した?)ラヴェルの両面が見事に結晶したピアノ曲をつくりあげたわけです。当の本人は「ロマン派の風刺としてこれを書こうとしたのに、どうやらミイラ取りがミイラになったようだ」と、ちょっと皮肉っぽいことをいっていたようですけど。
ちなみにその後、「夜のガスパール」はシュールレアリストのアンドレ・ブルトンに「詩においてシュールレアリスムの先駆け」と称賛されて芸術家たちの注目を集めたりして、そんなこんなで、今では誰もが岩波文庫で読むことができるような立派な古典になったわけです。

え~、さて、ちょと前置きが長くなってしまいましたけど本題のラヴェルの「夜のガスパール」にいきましょう。ラヴェルはベルトランの詩集から「オンディーヌ」と「絞首台」と「スカルボ」の3つの詩編(原詩はこちら)を選んで曲にしたわけですね。「夜のガスパール」の中でも、とりわけラヴェル好みだって気がしてしまうような、その3つの詩編はどんなものかというと、まず「オンディーヌ」。これは古くは錬金術師パラケルススの論文、あるいはベルトランの同時代の作家フケーのメルヘンにも登場する水の精オンディーヌをモチーフにしたもので、窓をたたく雨のしずくにひそんで現れたオンディーヌが、男を誘惑しようとして(これは人間の男を夫にすることでしか魂を得ることができない、水の精の哀しい性でもあるんですけど)、断られ、さめざめと涙を流したかと思うと、突如、甲高い笑い声をあげてふたたび窓をつたうしずくとなって消えていくという、シュールな幻想美に彩られた詩なんですね。ラヴェルはこの詩を、なんとも精緻な“水の音楽”として構築しました。まあ、水を音楽で表現することにかけてはこの人は天才的ですから、聴いたことある人ならわかると思うけど、うちふるえるしずくの中からオンディーヌが現われるところが実にきめ細かく表現されています。でも、そもそもベルトランの詩自体がいろんな解釈を許すわけで、僕なんかこれを聴くと、もしかしたらしずくの中から現れたオンディーヌの誘惑のささやきは、狂人が雨音の中に聴いた幻聴なのかもしれない、なんてことも思ってしまうんですね。だからシュールレアリストたちがベルトランの詩に注目したっていうのもわかる気がするし、ラヴェルも現実と非現実の境界の音楽としてこれを書いたんじゃないかと、かなり勝手な解釈をしてしまうわけです。どうなんでしょう?いずれにしても、さまざまな解釈ができるベルトランの詩をラヴェルは裏切ってはいませんね。

「絞首台」は、なんともデカダンスな不思議な詩です。まず絞首台にぶらさがった死体がある。そしてその足元にひそむ無数のコオロギ、屍肉にむらがる甲虫や蜘蛛。遠くで執拗に鳴り続ける鐘の音(いったい誰がその鐘をついているのか?)。そんな光景を夕日が赤く染めている。原作の詩ではそういった光景をズームアウトしていくような絶妙な描写で、この詩の虚無感をよりいっそう際立たせているんですけど、ラヴェルはその執拗に鳴り続ける鐘の音を「変ロ音」で見事に表現しています。実際この詩に「鐘の音」という言葉が現れるのは最後の1行だけなんですけど、それを読んだとたんに鳴り続ける鐘の音がこの詩全体を包んでいることに気づくんですね。鐘の音はすでにずっと前から鳴っていた。そしてそれはずっと永遠に鳴り続けるんじゃないかと。この詩の不気味さというのは、たんに不気味なモチーフを描いたからじゃなくて、そんなふうに不安感をあおるようなところにあるんですね。で、この詩のそういうところを音で表現しきったラヴェルはさすがです。この曲を聴いて虚無的な美しさに惹かれたあなたは、もしかしたらデカダン詩人の素質があるのかもしれません(笑)。

最後の「スカルボ」は他の2編とは一転して、ちょっと滑稽な詩だったりします。眠りにつこうとする男の部屋に夜な夜なスカルボという妖精(なのかな?)が現れて、寝台の陰で笑い声をあげたり、カーテンに爪を軋ませたり、つま先立ちで独楽のようにくるくる回ったり、部屋中を転げ回ったり、はてまた突然巨大化したり、そうして最後にロウソクの火のように青白くなったかと思うとフッと消えてしまう。ちなみに僕はこの詩を読んで、カフカの短編「父の気がかり」に登場するオドラデクっていうミョーな生き物(ご存知ですか?)を思い出してしまいました。なんていうか、ミョーな生き物であるところがよく似ているんですね。いったいなんのために存在しているのかよくわかんない。このよくわかんない妖精スカルボのことをラヴェルがどうとらえたか、これまたわかんないけど、ともあれ超絶技巧が必要な超難曲に仕上げました。そもそもラヴェルは「夜のガスパールはベルトランの散文詩によるピアノ曲でであり、それは超絶的な名人芸が要求される3編の詩である」なんてことを公言しているんですけど、「スカルボ」はまさにその極め付け。メカニック好きのラヴェルが、スカルボの天真らんまんな振る舞いを音楽にすることに、異様な熱意で取り組んだことは想像にかたくない…、ですよね。

さてさて、こういう曲を弾かなければならない
ピアニストは大変です。
それともピアニスト冥利につきるっていうべきなのか。
ハイ、とりあえず、おすすめ2人の名演を紹介します。

 

自らがオンディーヌのごとくの熱演/マルタ・アルゲリッチ

アルゲリッチと「夜のガスパール」。情熱プレイのアルゲリッチとクールなラヴェルのピアノ曲って、ちょっと合わなそうな組み合わせなんですけど、ラヴェル自身が「ミイラ取りがミイラになった」といっているように、いっけんクールなようなこの曲は、剃刀でちょこっと切れば、それこそロマンチシズムがドロドロッっとあふれ出してくるような曲なわけで、ラヴェルの作品の中でもすこし特殊な位置にある。そんなところをアルゲリッチもふまえて、抑えるところは抑え、ドロッといくところはドロッといってと、素晴らしい演奏をしています。聴きどころはやっぱり「オンディーヌ」。濃密な夜の空気や青い月明かりに照らされる湖、その湖底にゆらゆらとたたずむ水の王国のお城。そんな光景が目に浮かんできてしまう。まるでアルゲリッチ自身が男を誘惑しようとするオンディーヌであるかのような、そんな錯覚をおぼえてしまう。ある意味で女性的な感じといいたい。え?アルゲリッチのピアノが女性的だなんてウソだって?いや、もちろんアルゲリッチですから、おしとやかとかそういうのじゃなくて、たとえば男に拒否されたオンディーヌが突然高らかに笑いだす激しい変貌ぶりは、アルゲリッチらしい迫力があったりするけど、それは彼女が女性だからこそできた秀でた演奏じゃないかと思うんですね。男じゃ、ああはいかない。さすがです。「夜のガスパール」の人気盤といったらやはりこれでしょう。

 

彼岸系の曲は、やっぱり彼岸系ピアニストで/イーヴォ・ポゴレリチ

さて、アルゲリッチが認めた天才ピアニストがこのイーヴォ・ポゴレリチ。ポゴレリチがショパンコンクールに落選したときアルゲリッチが怒って審査員を辞退したエピソードは有名ですね。ポゴレリチも優勝ではなく落選したことで有名になってしまったわけで、ちょっとユニークなケースでもあります。で。そんな彼が弾く「夜のガスパール」は、すこし遅めのテンポの「オンディーヌ」がと~っても美しい。艶めかしいディテールがたまらないというか、妖気がただよってくるような、いけない魅惑を感じさせる演奏です。そんなことからか、ピアニストでありドビュッシーの研究家でもある青柳いづみこさんはいっています。「(ポゴレリチの「オンディーヌ」は)ずっと閉鎖的で耽美的だ。美しく装った姿を鏡に映してナルシスティックに陶酔にふけっている女装のオンディーヌ」であると。そしてポゴレリチは、おそらく人間界にとどまろうとするアシュケナージのようなピアニストとは違って「すすんでオンディーヌと結婚し、水の底に住もうとするタイプだ。こういうピアノを弾く人は、どのみち現実の世界には生きていない」と。
うまいこといいますね。人間界にとどまろうとするアシュケナージと、すすんでオンディーヌと結婚するポゴレリチですか(笑)。それにしてもポゴレリチは、かつては異端児とかこけおどしとかいわれてましたが、今や独自の美意識をもった孤高の彼岸系ピアニストですね。そんなわけで「夜のガスパール」のような彼岸系ピアノ曲と相性抜群です。個人的好みでいえば、僕の場合、ポゴレリチ版ガスパールがベストかな?

 

 

2016-06-15 | Posted in 人物, 音楽のことNo Comments » 

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