粋ってなあに?/九鬼周造「「いき」の構造」

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黒い着流しに赤い襦袢をさりげなくのぞかせて、胸のすくような小気味いい啖呵を切る助六は、まさに江戸っ子の美意識である“粋”の具現者である。それは、たぶん多くの人が納得することだと思う。じゃあ、その“粋”ってなんなのか?江戸っ子の美意識である“粋”とは、けっきょくのところなんなのか?これをすらすらと説明できる人は、たぶん、そう多くはいないだろう。
そんな“粋”を徹底的に解明してやろうじゃないかと考えた哲学者がいた。言葉には「上」とか「下」とかといったような他国の言葉にかんたんに置き換えることができる普遍的な言葉があるけど、フランス語の「エスプリ」のように他国の言葉に置き換えられないようなものもある。“粋”という言葉もそんな言葉にほかならない。いったい“粋”の本質とはなんなのか?それはどういう構造をしているのだろうか?と、そんなようなことを考えながら九鬼周造(くきしゅうぞう)は「「いき」の構造」を書きはじめた。
九鬼によれば“粋”は「媚態」と「意気地」と「諦め」の3つの要素からなっている。「媚態」とは惚れた異性をものにしたいという欲望からにじみでてくる色気、あるいはエロさといっちゃってもいいかもしれない。で、そんな「媚態」は惚れた相手をものにしちゃったら弱まってくる。ポイントは、ものにしたいと思っている状態の、ある種の緊張感があってこそ「媚態」は強くにじみでているということだ。そして、そこで重要になってくるのが「意気地」と「諦め」だったりする。このふたつがあってこそ、「媚態」は持続し続けるのである。「意気地」とは「この意気地なし!」なんていうように、ある種の気概や、心の強さ、わかりやすく乱暴にいっちゃえばやせ我慢のようなものだ。「武士は食わねど高楊枝」というときの美意識としてのやせ我慢。そして「諦め」は、あまり執着しない態度。この場合、欲望に執着しない態度といったほうがいいかもしれない。つまり「媚態」がギラギラしていたら、それはたんなるエロなわけで、そこに絶妙なブレーキをかけるような「意気地」と「諦め」があってこそ、魅力的な「色気」となって、それを“粋”というわけである。わかりやすくまとめると、“粋”とは「色気(媚態)」を「心の強さ・張り(意気地)」と「垢抜けした態度(諦め)」でセーブした絶妙なバランス状態のことをいうのである。
さて、それでは、ここでひとつ質問を。着物の柄の縦縞と横縞はどっちが“粋”でしょうか?
え~、正解は縦縞。まあ、たしかに縦縞と横縞はどっちが“粋”かと聞かれれば、多くの人が感覚的に縦縞と答えるのではないかと思うけど、それは決して偶然ではないと九鬼はいっている。なぜ縦縞が“粋”なのかというと、それがまさに“粋”の二元性を表しているからだ。“粋”の中核である「媚態」は常に「意気地」と「諦め」によってセーブされている。惚れた相手と交わりたいのに交わらない。そんな状態で、縦縞はそのように永遠に交わらない二元性を表しているのだということだ。たしかに縦縞の縞は交わることがない。でも、それならば横縞だって交わらない。そこはどうなのだろう。九鬼はいう。横縞よりも縦縞のほうが視覚的に強くそれを表しているのだと。「「いき」の構造」はそんな感じに、難解な哲学用語を駆使しながら歌舞伎や浮世絵、文様、建築とさまざまなジャンルを“粋”というキーワードで読み解いていく本である。言葉がとっつきにくいけど、語られていることが浮き世のことなので意外と読み進めていけるユニークな本でもある。
ただ、九鬼は「「粋」の構造」の最後の章でこんなふうな反省している。“粋”とはなんであるかを、ありのままに把握するつもりだったが、けっきょく概念的な把握しかできなかったと。実は、九鬼によってこの「「いき」の構造」が書かれはじめたころの当初のタイトルは「「いき」の本質」だった。ところが雑誌「思想」に発表されたときは「「いき」の構造」に改題されていたのである。

“粋”とはなにか?九鬼の手にかかっても完全には解明されない“粋”。でも、無理に解明しなくてもいいのである。言葉で説明しきれなくても、みんな、感覚的にはわかっているのだから。「エスプリ」がフランス人にしかわからないように、“粋”もたぶん、日本人にしかわからない感覚なのだろう。わかっていることは、“粋”は江戸の遊郭から生まれて、それが江戸っ子たちの美意識となり、数百年へだてた現代に生きるぼくたちも感覚的にわかるものであるということ。外国人にはわからない。そんな言葉があってもいい。いや、あったほうが文化的に健全だ。そこで結論。感覚的なものを言葉でむりくり説明しようなんてえ、そりゃあ、粋じゃないねえ、お前さん。

 

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