橋ものがたり/ドラマを生む江戸の橋

橋の上に、雨が音を立てていた。はじめておひさと逢ったあたりまで来たとき、吉兵衛は立ち止まって後を見、また行く手を見た。浅草の方には、まだ灯明かりがにじんでみえたが、本所側は暗くて墨のような闇があるばかりだった。(藤沢周平「橋ものがたり/氷雨降る」)

江戸の町には、夜の運河の水面にゆらめく石灯籠の灯りと、そこにかかる橋の上で寄り添う訳ありの男と女がよく似合う。実際に江戸の町を見たこともないくせに、なぜボクはそんな勝手なイメージをもっているのか?それはもう、一も二もなく藤沢周平の「橋ものがたり」の影響なのである。
藤沢周平の「橋ものがたり」は、江戸の町の橋を舞台として、市井に生きる男女の出会いや別れ、大人の恋の行方や悲哀を描いた美しい短編集で、「藤沢周平の小説にハズレなし」とよくいわれるように、この「橋ものがたり」もご多分にもれず、よくもまあ、こんなにも情感あふれるお話をいくつも書けるものだと、いまさらながら驚いてしまうわけだけど、この短編集を絶品小説にしているものが「江戸の町の橋」なのですね。

たとえば、あまりネタバレしない程度に「橋ものがたり」におさめられている「氷雨降る」の筋を追っていくと……

「氷雨降る」の主人公の吉兵衛は小間物屋の大旦那だ。店はすでに商売の才覚がある息子にまかせてあり、売上も申し分ない。しかし、内心はその息子の商売のやり方を「やりすぎ」だとも思っている。そんなに儲けてどうするのか?と。また、現役を退いて今はただ老いていくばかりだと感じている吉兵衛は、こうも思っている。若い頃からただ夢中で働いてきた自分は、一体なんのために汗水たらしてきたのか?もっとほかの生き方があったのではないか。自分は人生になにか大きな忘れ物をしてきてしまったのではないかと、心に得もいわれぬ喪失感を抱えている。

そんな吉兵衛がひょんなことから、ひとりの女をかくまうことになる。女は裏渡世の男たちに追われているいわくつきの女だった。吉兵衛は自分が住んでいる本所の隣の川向こうの浅草にある家に女をかくまった。
それからというもの、たまの様子見ついでに女と過ごすわずかな時間が吉兵衛にとって安らぎのひとときとなった。男女の関係はなくとも、そのときだけは漠然と感じていた人生の喪失感を忘れることができたのだ。
しかし、そんな関係も意外な結末を迎えることになる。思いもよらないことから、女は吉兵衛のもとを去っていった。しかも、間の悪いことに、女を追っていた裏渡世の男たちが吉兵衛のことを嗅ぎつけて、吉兵衛に執拗に女の行き先を問い詰めた。吉兵衛は答えない。男たちに袋叩きにされながら吉兵衛は遠のいていきそうな意識の中で「自分が今だけこの痛みに耐えればすべてが解決する」と耐え抜いた。
ようやく男たちから解放されて、身体中を襲う激痛に耐えながら、氷雨降る橋の上で、吉兵衛はまだ明かりの灯る浅草の町を見て、そして自分の店がある本所の町を見た。橋の向こうには夜も更けて墨のような闇の中に横たわる本所の町。結局は自分の帰る場所はこの町だけなのだ、と吉兵衛は逃れられない現実を思った。

……と、まぁ、決して明るいお話ではないけれども、「氷雨降る」には、中高年の男の人生の悲哀が見事に描かれている。そしてその悲哀をより物悲しく演出しているのが「橋」なのだ。
吉兵衛にとって橋が女と出会った思い出の場所であり、その女と過ごした浅草の町と、自分の店がある本所の町を隔てる境目が橋なのである。つまり、やるせない現実を忘れさせてくれる町と、やるせない現実が待っている町を橋がつないでいる。日常と夢の世界をつなぐかけ橋のように。浅草と本所をつなぐ橋だから、それは隅田川にかかる橋なのだろう。してみるならば、その橋は長い大きな橋に違いない。つまりラストシーンで吉兵衛が橋の上から暗く横たわる本所の町を眺めるその光景は、暗闇に向かって長く伸びる橋の向こうにあるものなのだ。藤沢周平の無駄のない文章は、そんな光景を読者の頭の中に幻灯のように浮かび上がらせてくれる。これが橋ではなく、ただの道だったら、ラストシーンの印象はぜんぜん違うものになったはずである。

まだ電気がなかった時代。運河が張り巡らされた江戸の町は、夜ともなれば、月明かりや石灯籠の蝋燭の灯り、提灯の灯り、建物から漏れる行灯の灯りなど、さまざまな光が水面に映ってゆらゆらと儚くゆれていたことだろう。そんな情景を思い浮かべて、頭のなかで物語に重ねていくと、いよいよこの短編集の美しさが際立ってくるんですね。
藤沢周平は描きすぎない。そのさじ加減が絶妙だ。だからこそ読者はその小説の中により深く入っていけるし、頭の中に自然と情景を思い浮かべることができる。「橋ものがたり」は、江戸の町の橋という特別なものを描くことで、そんな藤沢周平の筆が冴え渡った短編集、さらにいえば読者の頭の中に物悲しくも美しい橋の情景を映し出す“脳内映画館”のような短編集なのである。ぜひぜひご一読を。

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