マリオ・ジャコメッリ/私にはこの顔を愛撫してくれる手がない

ボクがマリオ・ジャコメッリの写真に出会ったのは、2008年に東京都写真美術館で開催された「知られざる鬼才マリオ ・ジャコメッリ展」でだった。まったく知らなかった写真家だったけれど、その展示会のポスターの写真が不思議なオーラを放っていたので、とりあえず見てみようかなぐらいの気持ちで会場に入ってみたのだ。そしてボクは彼の写真にガツンとやられた。中でも「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」というタイトルの連作写真の1枚に、心を鷲掴みにされてしまった。その翌日、ボクはジャコメッリ展の図録から「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」のその1枚を、当時勤めていた会社の高精細なカラーコピーで複写して、それを額装して自分の机の前に飾った。会社を辞めて独立してからも、それは持ち帰られて自分の部屋に飾られてある。つまるところ、ボクが生涯でいちばん目にしている写真がそのジャコメッリのその写真なのである。そして、カラーコピーであっても、その写真は依然として不思議なオーラを放っていてボクの心になにか名状しがたいものを訴え続けているのだ。

でも、そんな、かれこれ10年にわたってほぼ毎日見ている写真であっても、ボクはその写真の魅力を言葉に表すことができない。
ジャコメッリはモノクロのコントラストに過剰なほどにこだわった写真家だった。いわゆるアマチュア写真家で、写真も独学で学んだ。その過剰なモノクロのコントラストも、白飛びしたりしていて、ふつうのテクニック的な尺度で見たら、イケてない写真なのだ。でも、ジャコメッリの写真は、そんなふつうのテクニック的な尺度なんか吹き飛ばしてしまう強度を持っている。ジャコメッリ自身が語った、こんな言葉がある。「プリントするときに手で修正がかけられる印画紙。白が損なわれないように、黒が閉ざされないように。黒の内と同じように白の内が読めるように。白、それは虚無。黒、それは傷跡だ」。
それならばジャコメッリの写真とはつまりは「虚無」と「傷跡」で描かれた一篇の詩のようなものなのかもしれない。そもそも「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」という言葉も、神父であり詩人でもあるダヴィド・マリア・トゥロルドの詩の中の言葉だったりする。「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」の連作写真は、ジャコメッリが自分が暮らすイタリアの小さな村のセニガリアの神学校で三年かけて撮影したものである。三年かけたといっても、最初の一年間は、写真を撮らず、若い神学生の中に溶け込んでいくために時間をついやした。普段は印刷業を営んでいて、写真は休みの日曜日にだけ撮っていたというジャコメッリだったけれども、いや、それでも一年間もかけて神学生の中に溶け込んでいくっていうのはすごいことだ。逆にいうならば、ジャコメッリは、それだけ時間をかけて溶け込んでいくことでしか被写体の神学生からなにかを引き出すことはできないと確信していたのではないだろうか。じゃあ、ジャコメッリはなにを引き出そうとしていたのか。
「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」という言葉。神学生たちはいずれ神父になる。いち宗教者としてストイックに自分のエゴを封印して、多くの悩める人たちに寄り添っていく、そういう人生を選んだ若者たちなのである。まさに「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」という、なんとも孤独な人生を選んだ若者たちなのだ。ジャコメッリのカメラのレンズはそういう彼らから、まだ大人になりきれない無邪気な一面を引き出していった。敬虔な宗教者になろうとしている彼らから、あえて封印しようとしている“青春”を引き出した(そう、彼らだってまだ社会に出る前の子供なのだ)。だから重いテーマが多いジャコメッリの写真なかで 「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」の連作は、ある種ファンタジカルな味を醸し出している。雪遊びにいそしむ無邪気な神学生たちの顔。そして雪の白と神学生たちが身にまとっている法衣の黒が、まさにジャコメッリがこだわってきた過剰なモノクロのコントラストをなんとも美しいものにしている。写真というよりは、写真という技法で絵を描いているような……、いやいや、詩を書いているようなのが「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」の連作なのだ。ジャコメッリの写真が神学生たちが封印しようとしている“青春”を引き出していればいるほどに、タイトルの「私にはこの顔を愛撫してくれる手がない」という言葉が重くのしかかってくる。それはあたかも、詩の奥深くも残酷な言葉と、ジャコメッリが独学で到達したモノクロ写真の唯一無二な表現が、あわせ鏡の間を高速で行き交うどちらにもつかない鏡像のように、観るものの心をいつまでも乱すからなのかもしれない。そんな写真の境地にジャコメッリが到達できたのは、やっぱりこの人の本質が詩人だったからなのだろうと思う。じゃあ、詩人とはなにか?それは自分だけの信じられるボキャブラリーで、世界を語ろうとする人、言葉では語りえないものを、あえて語ろうとする人なのだろう。

※当サイトのすべての文、画像、データの無断転載を堅くお断りします。

2018-10-09 | Posted in アートのこと, 人物No Comments » 

関連記事